「ゼロ・グラビティ」を観た。観ているだけで息苦しくなる映画だった。あんなところでは自分はとても生きていけない、と思った。重力がありがたいわ。
死に方の生々しさ
船員は窒息して、乾いて死ぬ。船外活動中だった男性は、デブリに頭を貫かれて死ぬ。後者の遺品のなかに、妻や子供の写真が写っていた。こういう、死んだ人物が誰かの大切な人だったという描写に、自分は本当に弱い。
ロシア人だったか、マットという男性も合理的な判断をしていた。二人で死ぬより一人が生き残るほうがいい、という選択。情ではなく合理で決めた選択は、観ていて辛い。
宇宙はきれいで、生きていけない
宇宙から見た太陽や地球は美しい。それは映画の中で何度も見せられる。しかしその美しさのすぐ隣で、空気がないというだけで人間は呼吸できずに死ぬ。あの落差が、この映画のいちばんしんどいところだと思う。
ふと脱線して考えたのだが、ガンダム世界はあれだけコロニーまで作る技術を持ちながら、なぜあんなに文化的・政治的には未熟なままなのだろう。技術と文化の発展速度は本来そんなに揃わないものなのかもしれない。あるいは、揃わないからこそ戦争が起きるのか。
細かいところで気になったこと
主人公の名前は思い出せないが、スーツ内の酸素が0%になってからも、彼女は結構な時間持ちこたえていた。あの状況で呼吸をコントロールするのは、実際どうやればできるのだろう。パニックの中で呼吸を意識的に抑えるというのは、訓練でどこまで身につくものなのか。
宇宙飛行士というのは、人類の中でも上澄みの中の上澄みのはずだ。それが事故で何人も死んでいく。映画の中の話とはいえ、もったいないと感じてしまう。現実でも宇宙開発の歴史で何人もの宇宙飛行士が亡くなっている。あれだけ訓練と選抜を経た人たちが、と思うと、やはりもったいない。
邦題と原題の話
邦題は「ゼロ・グラビティ」だが、原題は「Gravity」だった。無重力を強調した邦題と、重力そのものを題にした原題。逆である。
原題のほうは、観終わってから効いてくる。ラストで主人公が地表に降り立ち、地面の感触に手をつく場面。あれは「重力に戻ってきた」場面であって、映画全体は「重力を失い、重力に戻る」物語だった。そう考えると Gravity というタイトルのほうが、映画の構造を正しく射抜いている気がする。
邦題が「ゼロ・グラビティ」になったのは、おそらく日本の観客にとって「無重力空間で漂う絶望」のほうが宣伝文句として伝わりやすかったからだろう。商業的判断としては理解できる。ただ、作品の意図とはずれている。
雑談のリアリティ
劇中、宇宙飛行士たちは無線で結構くだけた雑談をする。実際の宇宙飛行士もあんなふうに雑談するのだろうか。任務中の通信記録を聞いたことがないので分からないが、極限環境にいる人ほど普段は冗談を言うものだ、という話は聞く。緊張を保ち続けると保たないから、意図的に弛緩を挟む。あれはリアルなのかもしれない。

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