自由意志は幻か? テッド・チャン『What’s Expected of Us』と科学が突きつける問い

未分類

テッド・チャンの短編「What’s Expected of Us(予期される未来)」は、我々が長らく信じてきた「自由意志」という概念を根底から揺るがす警告に満ちた作品だ。物語は、未来を予知する奇妙な装置「予言機」の普及がもたらす人類の精神的崩壊を描いている。手のひらサイズでボタンを押す「1秒前」にライトが光るというこの単純な機械は、人間の行動がすでに決定されていることを実体験として突きつけ、多くの人々を「目覚めた昏睡状態」ともいうべき無動無言症へと追いやる。これは、物理学や純粋な論理で自由意志の不在が語られても「知っているだけ」で済んでいた概念が、実体験によって「わかってしまった」時に、人類がいかに脆いかを鮮烈に示している。

予言機が示す「未来は変更不可能である」という事実、そして「光は常にボタンに先行する」という抗いがたい現実は、人間の自由な選択が幻想に過ぎないことを冷徹に経験させる。興味深いのは、この概念がそれ自体は無害であったにもかかわらず、体験として認知されることで「認知伝染病」のように広がっていく点だ。作中の医師が「今も、先月と同じように振る舞えばいい」と説いても、患者は「でも、いまは知ってるんです」と答え、選択を放棄する。これは、知識が信念に変わった時、人間の行動原理が根本から覆されることを示唆している。

そして、この作品は、未来から予言機と同じ技術で未来から送られてきたメッセージという体裁を取っている。その未来から送られてくるメッセージは、「自由意志を持っているふりをしろ。現実がどうなのかは重要じゃない。重要なのはなにを信じるかだ」と、自己欺瞞(ぎまん)によって文明を存続させるという、絶望的な処方箋を提示する。

しかし、このメッセージが何処の誰に届こうとも、予言機を誰が使って、誰が何をどう感じるかは全て決まっている…

科学が問い質す自由意志の真偽

この作品が提示する問いは、まさに現代の神経科学が直面している問題と深くリンクしている。1980年代のリベットの実験以来、脳科学は「人間には自由意志など存在せず、脳が無意識的に決定を下した後に、それが『自分の意志』として意識にのぼる」という衝撃的な研究結果を数多く発表してきた。我々が意識的な決定をする約0.2秒前には、既に脳内で無意識的な「準備電位」が発生しているという事実は、「我々の行動は全て、脳の化学プロセスによって決定されているのではないか」という疑念を抱かせる。

しかし、自由意志の存在を完全に否定するだけではない希望の光も見える。ドイツのシャリテ病院による最新研究では、脳の無意識的決定後でも、ボタンを押す約0.2秒前までならば、意識的にその動作を「拒否」できることが示された。これは、脳が用意する生体的な決断に対し、我々の自由意志が「拒否権」という形で介入する余地があることを示唆している。我々は完全に「生体学的な操り人形」ではないのかもしれない。

参考:

「自由意志」は存在する(ただし、ほんの0.2秒間だけ):研究結果
われわれに自由意志は存在するのか? 熟考した末の意識的な決断は、自由意志の表れではないのか? 長年にわたって繰り広げられてきた思索と研究の末、いま興味深い研究結果が発表された。

法的責任と神経科学の未来

自由意志の有無に関する議論は、法的な責任の概念にも大きな波紋を投げかける。ジョージア州の殺人事件弁護や、ジョン・ヒンクリー・ジュニア被告の暗殺未遂事件における心神喪失の抗弁に見られるように、行動の生物学的・神経科学的根拠が明らかになるにつれて、「善悪の判断ができても、器質的に行動を制御できない」可能性が浮上する。スタンフォード大学のロバート・サポルスキー教授は、160年前の科学に基づいた「マクノートン・ルール」のような法的基準の再評価を訴え、神経科学の理解が深まることで、我々の刑罰に対する考え方も変化するだろうと指摘する。

プリンストン大学のジョシュア・グリーン博士の「パペット氏」のたとえ話は、神経科学の知識が、すべての行動を物理的な出来事の連鎖として捉えさせ、処罰への直感的な見方を変化させる可能性を示唆している。感情が強い人間の判断を理性的に律するのは難しいが、将来的に神経科学が提供する知識が広く認知されれば、我々は人間行動の本質をより正確に理解し、法律的な意志決定においても感情を排した判断ができるようになるかもしれない。

参考:

神経科学が問いなおす「自由意志と責任」
米国では現在、被告人の弁護側が心神喪失を主張する場合、善悪の認識なしに犯行におよんだことの証明が義務付けられている。しかし、神経科学的研究から、前頭葉に損傷があった場合、善悪の判断ができても行動を制御できない人がいることがわかってきた。「自...

コメント

タイトルとURLをコピーしました